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2010年2月21日日曜日

「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む

                                            

 「宗教と経済の関係」については、書評『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)のなかで書いておいたが、この機会に再びこのテーマについて書かれた本を取り上げてみたい。

 人間の生存にとって重要な経済について宗教はどう見ているのか、経済と宗教の関係はいったいどうなっているのか、狭い意味の「経済思想」ではなく、「宗教思想」において「経済」がどう捉えられているのか、についてである。

 まず最初に、『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009)の紹介をしておこう。こういう書評を2ヶ月前に書いたので、一部字句を修正したうえで再録しておく。




宗教学者による「経済学」批判-経済学は「神の見えざる手の神学」だ-

 「リーマンショック」が引き金となった、米国発の金融恐慌から1年近くたったこの時期に、宗教学者が「金融資本主義」の中核に「ユダヤ・キリスト教」の一神教信仰が見え隠れしていることを示してみせた。
 
 ユダヤ教とキリスト教(・・とくにプロテスタントのなかでもカルヴァン主義とピューリタン)の信仰の核心には「終末論」が存在する。

 金融恐慌にさなか、慌てふためいた強欲な資本家たちや、パニックに陥った経済学者や政策決定者に、なりふり構わぬ言動をとらせたことの背景には「終末論」があったのである。 

 著者の表現をつかえば、「危機に直面したとき、それを自動的に世界が崩壊する予兆として解釈してしまう回路が形成されている」(P.32)のである。「終末論的に解釈する心理的な回路が形成」(p.37)されているのである、と。

 こうした"思考の枠組み"(フレームワーク)が、無意識のうちに働いているのである。

 また、経済学の影響を受けてきた日本人のビジネス関係者が日頃何気なく使用する表現に、アダム・スミスの「神の見えざる手」というものがある。

 自由放任(レッセフェール)のもとにおける、市場(マーケット)の自動調整メカニズムのことだが、著者はアダム・スミスが「見えざる手」という表現を使用してはいても、決して「神の見えざる手」とはいっていない(!)こと着目している。

 アダム・スミスの意図にかかわりなく、受容する側が自分たちに都合のいいような解釈をした結果、意味が変容して定着したのだと。

(「見えざる手 an invisible hand  アジア文庫蔵 筆者撮影) 

 これもまた、無意識のうちに働く"思考の枠組み"(フレームワーク)である。
 
 こういう土壌のもとにある米国で暴走した「市場原理主義」が、まさに宗教的な原理主義と同じ構造をもっていたことは明らかだ。

 そして宗教学者である著者は、アメリカで主流の新古典派経済学は、「神の見えざる手」の神学だと喝破する。「欧米で発達した経済学という学問は、根拠の薄弱な前提によって立つ神学的な試みに見えてくる。」(P.171)。

 「市場原理主義」の背後には、世界を支配し、その動向に決定的な影響を与える唯一絶対の神が存在し、市場主義の経済学とは、その神学である、というわけだ。

 だからこそ日本人は、経済学の呪縛から解き放たれねばならないのだ、と。

 目次を紹介しておこう。

第1章 終末論が生んだ100年に1度の金融危機
第2章 ノアの箱船に殺到するアメリカの企業家たち
第3章 資本主義を生んだキリスト教の禁欲主義とその矛盾
第4章 市場原理主義と「神の見えざる手」
第5章 マルクス経済学の終末論と脱宗教としてのケインズ経済学
第6章 なぜ経済学は宗教化するのか
第7章 イスラム金融の宗教的背景
第8章 日本における「神なき資本主義」の形成

 タイトルにある「ユダヤ・キリスト教」という表現は、同じ一神教であるイスラームとの対比で用いられており、宗教学的な意味で受け取る必要があることに注意しておきたい。けっしてユダヤ教とキリスト教が共謀した陰謀があると主張しているわけではないし、本書もそういった「陰謀論」とはまったく無縁である。

 ビジネスマンである私は、最終章で著者が描く日本の現実は牧歌的にすぎるのではないかとは思うが、本書で平易に説明されている、経済学的思考の枠組みがいかなる影響のもとにあるかを知っておくことは、きわめて重要であると考えている。

 「宗教と経済の関係」について考える際の入門書として、ぜひ一読することをおすすめしたい。


<初出情報>

■bk1書評「宗教学者による「経済学」批判-経済学は「神の見えざる手の神学」だ-」投稿掲載(2009年12月19日)

*再録にあたって字句の一部は修正した。



<書評への付記>

 冒頭にも触れたように、宗教と経済の関係について積極的に発言しているのは、中沢新一も同様で、『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)の書評を補足して、このテーマに関する私自身の見解についても補足として書いておいた。私の大学卒業論文にも関連するテーマだからだ。

 宗教学者で作家の島田裕巳が、宗教と経済の関連について関心が高いことは、『資本主義2.0-宗教と経済が融合する時代-』(水野和夫/島田裕巳、講談社、2008)という本を、経済アナリストと共著で書いていることでもわかる。


 島田裕巳による本書は、その意味では、宗教と経済の関係についての入門書として読むのがよい。基本的なポイントはすべて押さえてあるからだ。

 「リーマンショック」と命名されたこの時期にいったい何が起こったのか、私を含めて世の中は健忘症の人間が多いので、本書を紹介しておく必要はあると思う。ただ何点か、注意しておきたい事項があるので、以下に書いておくこととする。


「ユダヤ・キリスト教」というくくりの問題点

 タイトルにある「ユダヤ・キリスト教」というくくりは、同じ一神教であるイスラームとの対比で用いられた、宗教学的な意味として受け取る必要があることに注意しておきたい。決して、ユダヤ教とキリスト教が共謀した陰謀(?)が存在するわけではない。

 しかし、私は本書のタイトルは適切な表現ではない、と考える。キリスト教とユダヤ教はともに旧約聖書(・・これはキリスト教的な表現だ。ユダヤ教では「タナハ」といい、内容は同じだが配列が異なる*)を母胎として発生したことは否定できない事実だが、この二つの一神教は異なる宗教であることもまた事実である。

 極端な比喩かもしれないが、進化論を例にとって説明すれば、人間とサルは祖先をともにするが、人間の祖先がサルだというわけではない、というロジックと同じである。「キリスト教が成立した時点のユダヤ教」と、それ以後に独自に発展し2000年以上の歴史をもつ「現在のユダヤ教」がイコールではないのは当然である。しかも、現在のユダヤ教も超正統派から改革派まで幅が広い。

 「ユダヤ・キリスト教」という表現は、キリスト教の側からみた表現であり、民族宗教であるユダヤ教と世界宗教であるキリスト教は区分して考えるべきである。

*注:ユダヤ教では、内容によって全体を3つに分け、以下の順番で配列されている。トーラー(=モーセ五書:『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』)、ネヴィーム(=預言書:『ヨシュア記』『士師記』『サムエル』『列王記』『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』『12小預言書』)、ケトゥビーム(=諸書:『詩篇』『箴言』『ヨブ記』『雅歌』『ルツ記』『哀歌』『コヘレトの言葉』『エステル記』『ダニエル書』『エズラ/ネヘミヤ記』『歴代誌』の11書)。


 もちろんユダヤ教の経典である「旧約聖書」から、キリスト教が生まれたことは事実であり、とくにプロテスタントは新約聖書だけでなく旧約聖書の世界も重視しているので、米国のプロテスタントにはイスラエルに限りない愛を感じる人たちも少なからずいるようだ。イスラエルへ聖地巡礼を行う米国人ツアーは多い。彼ら米国人プロテスタントは、ローマよりもエルサレムを重視する人たちである。

 その意味では、この「ユダヤ・キリスト教」という表現は、米国のユダヤ教徒と米国のプロテスタントの「同床異夢」の関係を示唆していると見るのも、あながち間違いだともいえない。「野合」などという、あまり品のよくないコトバを使う人もいるのだが。


「終末論」について

 「ユダヤ・キリスト教が強く影響しているアメリカ社会には、危機的な事態を終末論的に解釈する心理的な回路が形成されているのである」(P.37)。 

 この発言については総論賛成であるが、イスラームについても、ユダヤ教やキリスト教と同様、「終末論」と「メシアニズム」が濃厚に存在してきたことが、本書でははいっさい触れられていないのは問題ではあるまいか。

 経済思想について「ユダヤ・キリスト教」とイスラームを対比し、論旨を明確にするための措置だとは思うが、誤解を生むおそれがある。

 イスラーム神秘哲学研究の世界的権威であった井筒俊彦は、カトリック作家の遠藤周作との対談のなかで、次のようにいっている。

 元来、イスラームでは、『コーラン』という聖典そのものが歴史的には旧約から非常に大きな影響を受けています。ですから、コーランを読んでいくと、いたるところで旧約的なものにぶつかるんです。とくに律法中心の考え方とか、預言の概念とか、神と人間の関係とか、終末論的ヴィジョンとか、そういうものはだいたい旧約に通じているんですね。
 こんなわけで、新約聖書と旧約聖書を足がかりとして私はイスラームに入っていった。それだけに、案外、イスラームというものがわかりやすかった、言えるかもしれませんね。イスラームを動かしている根源的なもの、それは新約・旧約両聖書の精神に通じるものです。キリスト教もユダヤ教もイスラームも、窮極的には同じ精神、同じメンタリティー、セミティックというのですか、セム的なメンタリティーが生み出した宗教現象なんですから。
 ・・(中略)・・
 真に生きた神、人格的一神、にたいする情熱的な、なまなましい信仰をもとにして、それを全存在の極点として表象する(その存在をわれわれが信じるか信じないかは別として)、そういう形で存在性のギリギリの原点を表象するということがセム的じゃないかと私は思うのです。

(出典:『叡知の台座-井筒俊彦対談集-』(岩波書店、1986)所収 Ⅰ 文学と思想の深層 P.9-11)



 「イスラームの終末論」については、イスラーム研究の若き俊秀・池内 恵の処女作『現代アラブの社会思想-終末論とイスラーム主義-』(池内 恵、講談社現代新書、2002)が必読書だ。

 この本をよむと、イスラエル成立後、反ユダヤ主義の中心地が、キリスト教世界からイスラーム世界にシフトしたことが理解できる。



 池内恵が留学先のエジプトで大量に収集した「終末論」をテーマにしたアラビア語の本やCDの数々には、「待望の救世主マフディー」、「偽救世主ダッジャール」などの登場する、まさにおどろおどろしいようなオカルトの世界である。

 これらがアル・カーイダなどの反ユダヤ・キリスト教的な世界観を創り上げていることを知っておく必要がある。

 参考のために『現代アラブの社会思想』の「目次」を紹介しておこう。

序 アラブ社会の現在
 Ⅰ:狭まる世界認識 Ⅱ:悪化する世相
第1部 アラブの苦境
 Ⅰ:「一九六七」の衝撃-社会思想の分極化 
 Ⅱ:「人民闘争」論の隆盛  
 Ⅲ:パレスチナへの視線
 Ⅳ:「イスラームが解決だ」  
 Ⅴ:イスラーム原理主義の隘路  
 Ⅵ:アラブ現実主義のプロファイル
第2部 高まる終末意識
 Ⅰ:終末論の流行
 Ⅱ:セム的一神教と終末論
 Ⅲ:『コーラン』の終末論
 Ⅳ:『ハディース集』の終末「前兆」論
 Ⅴ:前兆との符号
 Ⅵ:陰謀史観とオカルト思想
おわりに

 もちろん現在に至るまで、キリスト教世界では依然としてユダヤ人はマイノリティであり、反ユダヤ主義が過去のものであるとはいい難い

 これは米国でも欧州でも同じである。表だった形での差別はできないが、潜在的な差別感情が存在することは、私自身も直接見聞きしている。

 ちなみに池内恵はドイツ文学者・池内紀の息子である。

 終末論について書かれた本はその多くがキリスト教に関したものだが、幅広く考えるためには、東京大学におけるシンポジウムの記録を活字化した、『地中海 終末論の誘惑((UP選書)』(蓮實重彦/山内昌之=編、東京大学出版会、1996)がよい。世界の主要な一神教3つが発生した地中海世界をこういう視点からみることもできる、という意味で興味深い内容になっている。




 また、資本主義の徹底分析を行ったマルクス主義には、終末論的な構造があることも、多くの宗教学者が指摘してきたことである。

 たとえば、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデ『聖と俗-宗教的なるものの本質について-』(風間敏夫訳、法政大学出版局、1969)の最終章の終わり近くで、以下のように述べている。原著の出版は1957年である。

 たとえば共産主義の神話的構造とその終末論的内容を考えてみるがよかろう。
マルクスはアジア・地中海世界の偉大な終末論神話の一つを再発見し、継承したのである。すなわちそれは世界の存在論的状態を替える使命を負うて苦難を受ける義人(<選ばれたる者><救世主><罪なき者><使徒>――現代ではプロレタリア階級)の救済者的役割である。階級なき社会と、その結果としての歴史的緊張の消滅は、多くの伝承が歴史の初めと終わりにおく黄金時代の神話のなかに、すでにその正確にその先蹤(せんしょう)が示されている。マルクスはこの尊敬すべき神話に、ユダヤ・キリスト教的救世主の理念をそっくり付け加えた。それは彼のプロレタリア階級に与えた預言者的、救済者的役割と、キリストの勝利に終わるかの黙示録の、キリストと反キリストの戦いそのままな善人と悪人の最終闘争とを考えさえすれば明瞭である。マルクスが歴史の絶対的終焉を期待するユダヤ・キリスト教的終末論を受け継いでいることは注目に値する。これによって彼は、(たとえばクローチェやオルテガ・イ・ガセットのように)歴史的緊張が人間的状態と同体共存するものであり、それゆえこれを全面的に廃棄することは不可能であるとする、その他の歴史主義哲学から区別される。(P.196-197)

 この文章は、大学一年の1981年に読んでたいへん強い印象を受けた。

 すでに退潮していたとはいえ、とくに社会科学系大学のキャンパスには、まだまだマルクス主義の残滓が多く存在していたが、私がマルクス主義にも唯物史観にも染まることなく終わったのは、この文章のおかげも大きい。



 多くの日本人には、マルクス主義の根底に終末論があるという構造が見えないので、マルクス主義を純粋な唯物論だと受け取ってきたに過ぎない、という島田裕巳の発言には、だから全面的に賛成である。

 もちろん、マルクスもエンゲルスも、マルクス主義者によるものではなく、それ自体は何冊も読んでいる。小林秀雄ではないが、マルクスとマルクス主義者は別物である。

 そして1981年前後の数年間は、中沢新一や浅田彰が「ニュー・アカデミズム」略して「ニューアカ」の旗手などといわれていた頃でもあった。

 セゾングループに代表される「消費文化」が頂点を迎えつつあったバブル前夜のこの時代、時代の雰囲気にに馴染めず、精神的なものを求めようとする動きが同時代的に存在したことは指摘しておく必要がある。

 学生運動もすでに退潮していたこの時代、宗教が学生運動の代替物となっていたのも、まぎれもない事実である。

 「オウム世代」というレッテル貼りの表現はあまり好きではないが、オウム真理教の幹部に、この時期に大学生活を過ごした者が少なくないのも、けっして偶然ではない。

 エリアーデはルーマニア王国の文化アタッシェとして駐在していた、ポルトガルのリスボンで第二次大戦の終結を迎えている。共産化した祖国には以後戻らず、フランスと米国で学究人生を送ったエミグレ(難民亡命者)であることを付け加えておこう。

 宗教学にかんする著作の大半は、フランス語と英語で行ったエリアーデだが、文学者としては母語であるルーマニア語でのみ執筆活動を行った。二度と足を踏むこともかなわぬ祖国へのノスタルジーでもあったのだろうか。



日本における「神なき資本主義」?

 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』の最終章である第8章 日本における「神なき資本主義」の形成、について。

 私は「ビジネスマンである私は、最終章で著者が描く日本の現実は牧歌的にすぎるのではないかとは思うが・・」と書評のなかで書いているが、島田裕巳は一時期はやった「日本的経営論」も、日本企業組織の実態も詳しく知らないのだろうとしか思われない。島田裕巳の議論には、1980年代的な響きしか感じ取れない。

 また、日本が本当に「神なき資本主義」であるかどうか、この点についても疑問が残る。

 「神」を「ユダヤ・キリスト教」的な一神教に限定すればそのようにいうのも可能かもしれない。しかし日本の「神」を多神教といって済ませてしまうのもいかがなものか。私自身は日本の神は多くの顔をもつ、きわめて一神教的な存在ではないかと考えているのだが・・・

 そもそもキリスト教の God を日本語で「神」と訳したことが、間違いの始まりなのではないだろうか。どうも日本語での議論が混乱しがちである。

 経済と宗教は、発生時点においては不可分の関係にあることは、何も一神教に限定されるわけではないし、ウェーバーの通称「プロ倫」は、あくまでも近代の「産業資本主義」の成立についての論文であり、古代から存在した「商業資本主義」と「金融資本主義」について述べているわけではない

 日本については網野善彦が、経済と宗教の関係が日本中世においては密接不可分なものであったことを何度も指摘している。「商業資本主義」、「金融資本主義」は、日本で自生的に発生したものであることは、基本的な商業用語や金融用語(とくに株式関係)が欧米語からの翻訳語ではないことに着目している。

 網野善彦は中沢新一の叔父さんにあたる人なので、互いに学問上の影響関係は少なくないようだが。『僕の叔父さん 網野善彦』(中沢新一、集英社新書、2004)を参照。 

 このテーマについては、さらに突っ込んだ検討が必要だ。



島田裕巳という生き方-宗教学者・中沢新一との関係


 「宗教と経済の関係」というテーマからは少しはずれるが、島田裕巳について書いておかねばならないことは、中沢新一との関係である。

 オウム真理教による「サリン事件」を境にして、命運がまったく分かれたこの二人の宗教学者は、東大文学部宗教学研究室の先輩後輩の関係にある。中沢新一のほうが島田裕巳の3年上になる。

 サリン事件から12年後、島田裕巳は中沢新一批判の一書を出版している。題して、『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(島田裕巳、亜紀書房、2007)。私はこの本は出版後すぐに目を通した。


 本来ならルサンチマン丸出しの叙述でもおかしくないハズだが、島田裕巳はかなり抑えた筆致で、中沢新一という大学教授としての公人の発言が社会に与える影響-もちろん、よい影響だけでなく悪い影響もある-について書いている。

 チベット密教における「グル思想」、レーニンに代表される左翼前衛思想という「政治性」、そして「霊的革命」などのキーワードによって、中沢新一という宗教学者の悪の側面に目をこらしている。そこにあるのは、一握りの精神的エリートが一般民衆を指導するという思想そのものではないか?

 自然科学とはことなり、人文科学では、研究者の生き方そのものが問われる。この意味において、島田裕巳の仕事は無意味なものではない。

 参考のために目次を紹介しておこう。
中沢氏の変節-はじめに
第1章 一番弟子の困惑
第2章 サリン事件の本当の意味
第3章 『虹の階梯』の影響と問題点
第4章 コミュニストの子どもとして
第5章 テロを正当化する思想
第6章 宗教学者としての責任

 1985年3月に発生した「サリン事件」からそろそろ15年になる。阪神大震災に続いて発生し、大きな分水嶺となったオウム真理教(当時)の思想的背景を知るうえでも、あえて敬遠せず目をとおすことを奨めたい。

 そのうえで、中沢新一の言説についての論評を行うべきである。私自身も中沢新一の言説は、面白く魅力的だと思って読んできた人間だが、手放しの礼賛はやめたほうがいいのではないかとは思っている。

 島田裕巳のこの本を読んではじめて、中沢新一の『はじまりのレーニン』(岩波書店、1998 現在は岩波現代文庫 2005)が何をいいたい本なのか、その隠されたメッセージを理解することができたことを、恥ずかしながら告白しておく。

 オウム真理教が、仏教から出発しながら、次第にキリスト教的な終末論も取り込み、ハルマゲドン到来を待ち望んでいた背景には何があったのか、真相はよくわからないが、いろいろと考えさせられることも多い(*)。

(*)この点については、「オウム真理教的なものを批判するよりもむしろそれに加担した1950年代世代の宗教学者たちへの根源的な批判を行っている『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011) をぜひごお読みいただきたい。(2014年2月18日 追記)。


 中沢新一がうまく「世間」を泳ぎ切っている一方、「世間」の圧力によって大学教授という安定した世界から追放された島田裕巳が、以後苦難の人生を歩んできたことは、昨年出版された経済学者・小幡績との共著『下り坂社会を生きる』(宝島社新書、2009)でこういう述懐をしていることからもわかる(・・この本についてはブログで取り上げて書評を書いている)。

私も今は物書きで食べていますが、本というのは当たるときはすごく当たったりする。でも、いつでもそうではないし、ほとんどの場合には本を出しても。初版止まりで、よくて一度重版というくらいで終わってしまう。もし、当たることを前提に仕事をしていたら、それは続かない。・・(中略)・・
あるとき気づいたのは、昔のベストセラー作家というのは、たとえば松本清張なんかそうですが、とにかく量を書いている。・・(中略)・・
それを考えると、物書きで食べられないのは、出す量が少ないからだと気がついた。そうすればたまに当たることもあるし、当たらなくても生活が成り立つ位は稼げる。下り坂の時代というのは、仕事の面では、そうやって食べていくしかない。それが現実だと思います。(P.136-137)

 まさに "publish or perish"(論文を出さねば、消え去るのみ)である。これは米国の大学の研究者の世界の話だが、日本の文筆家の世界でも、一家の生計をたてるためには著作を量産しなければならないわけなのである。

 最近も、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書、2010)という本が中高年のあいだで話題になっているようだ。まだ読んでいないが、「葬式仏教」ビジネス批判のようだ。 

 葬儀の世界でもいま「価格破壊」が進んでいるが、その援護射撃となるのではないか?

 たとえ「逆境」に落ちてもけっして絶望せず、「勇気」を振り絞って生きていかねばならない。宗教学者・島田裕巳の復活物語は、「波瀾万丈もの」として取り上げられてもいいはずのものだ。ポジティブに考えれば、宗教を研究する者としては、希有な体験をしたことにもなったといってもいい。

 マスコミからバッシングを受け、「世間」という目に見えない声と視線によって迫害され、大学という安楽の園(エデン)からは追放され、苦難を強いられた人生の軌跡。

 私が島田裕巳の著作を評価する理由の一つは、そういった島田氏の逆境から這い上がった人生の軌跡が、彼を宗教学者としてさらに鍛えあげることになったのではないか、とも思うからだ。

 ほとんど誰もが希望などもてない「下り坂社会」を生きるには、へんな希望などではなく、「絶望に打ち克つ勇気」こそが必要なのである。ラテン語には Per aspera ad astra(ペラスペラ・アダストラ)という、「苦難をつうじて星まで」という金言もある。真理は時代を超えて存在する。



 いろいろ書いてきたが、島田裕巳と中沢新一を天秤にかける意図は私にはない。島田裕巳を持ち上げて、中沢新一をけなすわけでもない。二人とも、ずいぶん長い期間にわたって読んできた読者として、書くべきことを書いたまでだと思っている。

 ただ、苦難というものは、正面から受け止めて、勇気をもってそれに打ち克つ努力をしない限り、突破口が開かないものなのだと、島田裕巳の人生をみてそう思うのである。



PS 読みやすくするため改行をふやし、写真を増やし大判にした。またその後の書いたブログ記事を踏まえて追記を書いておいた。本文にはいっさい手は加えていない。4年ぶりに全文を読み返してみたが、とくに修正の必要は感じない。 (2014年2月18日)。



<関連サイト>

25年目に振り返る東大駒場騒動 山口昌男さんを送りつつ、元一学生が思うこと(伊東 乾、日経ビジネスオンライン 2013年3月29日)
・・東大駒場をゆるがせてワイドショーネタにもなった中沢新一の人事問題について振り返った記事。読むべき価値あり(2013年3月29日 追加)


<ブログ内関連記事>

アダム・スミスの 「見えざる手」 は 「神の手」 ではない!-それは 「意図せざる結果」の説明として導入されたものだ

書評 『7大企業を動かす宗教哲学-名経営者、戦略の源-』(島田裕巳、角川ONEテーマ21、2013)-宗教や倫理が事業発展の原動力であった戦前派経営者たちの原点とは?
・・宗教学には熟知していても経営学も、実際のビジネス活動のなんたるかも理解していない著者には大きな限界あり

書評 『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)-東京という土地の歴史を縄文時代からの堆積として重層的に読み解く試み

『はじめての宗教論 右巻・左巻』(佐藤優、NHK出版、2009・2011)を読む-「見えない世界」をキチンと認識することが絶対に必要 
・・ただし佐藤優の「近代」認識には問題がある。彼の理解はあくまでもプロテスタント神学のものであり、日本の現実にあてはまめるには無理がある。佐藤憂氏は宗教学者ではなく、カルヴィニズムに立脚する信仰者であることに留意

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ
・・「オウム真理教的なものを批判するよりもむしろそれに加担した1950年代世代の宗教学者たちへの根源的な批判である」。 中沢新一だけでなく島田裕己も同様

書評 『革新幻想の戦後史』(竹内洋、中央公論新社、2011)-教育社会学者が「自分史」として語る「革新幻想」時代の「戦後日本」論
・・学生運動は挫折したもののソ連はいまだ崩壊していなかった1980年代後半、社会主義幻想はいまだ大学キャンパスには存在した。と同時にバブル時代の萌芽がすでに現れており、それに違和感を感じた若者たちがオウムなどに流れたのは不思議でもなんでもない

修道院から始まった「近代化」-ココ・シャネルの「ファッション革命」の原点はシトー会修道院にあった
・・「近代資本主義」はじつはカルヴィニズム以前、中世のカトリック修道院で生まれていること

「稲盛哲学」 は 「拝金社会主義中国」を変えることができるか?

(2013年3月29日 追加。 2014年2月18日、2016年5月31日 情報追加)


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