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2010年3月14日日曜日

書評『日本語は亡びない』(金谷武洋、ちくま新書、2010)-圧倒的多数の日本人にとって「日本語が亡びる」などという発想はまったく無縁




水村美苗の『日本語が亡びるとき』への違和感を表明した本としては賛成だが・・・

 2002年に出版された『日本語に主語はいらない』(金谷武洋、講談社メチエ)を読んだとき、よくぞ言っていただいたと感謝したくなったと、私は bk1 の書評に書いた。

 本書は、具体的にはバイリンガルの日本人作家・水村美苗の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008)への反論を意図して執筆したと、著者は『日本語は亡びない』(金谷武洋、ちくま新書、2010)の「はじめに」で述べている私自身、水村美苗の本を読んだとき非常に強い違和感を覚えたので、またとない援軍が現れたものだと思って、著者の「蛮勇」には大いに期待して本書を手に取った。

 ざっと読んでみての感想は、「満足半分」に「期待はずれ半分」である。

 「満足半分」というのは、著者の専門である、カナダ人への日本語教育実践から発見した日本語の特性から、日本語はけっして亡びないことを論証していることだ。これについては大筋で賛成である。著者の理論が正しいか正しくないかは、言語学の専門家どうしで論戦しあえばいい。

 「期待はずれ半分」といったのは、本の半分が本論とはあまり関係ない、宮部みゆきと中島みゆきの話で占められているからだ。しかも、言語学的な分析ではなく、このふたりの「みゆき」が表現する日本人の心性について語っているだけであって、だから「日本語は亡びない」という論旨とは、結びつきが弱すぎるのである。

 結論としては、この本は、水村美苗の『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で-』(筑摩書房、2008)への違和感を表明した本とはなっているが、分量を半分にして、言語社会学的な話で残り半分を書くべきではなかったのか、というのが私の感想である。

 とまあ、ここまで辛口の評価をしてきたが、水村美苗の『日本語が亡びるとき』への反論がでてきたことは、たいへん喜ばしい。著者がふと漏らしているように、水村美苗には12歳の時に、自分の意思ではなく有無をいわさず米国に連れて行かれたときに経験したトラウマがあるのだろう。

 日本語を実用的に使っているのは、ごくごく少数のインテリ作家だけでなく、圧倒的多数の一般ピープルだからだ。どう考えても、日常生活で英語を使うとはとても思えない圧倒的な日本人にとって、「日本語が亡びる」などという危機意識は、はっきりいって無縁の発想だろう。

 ほんとうに亡びる可能性が高いのは、話者が激減している、いわゆる「危機言語」である。人口が減少しているといっても、1億人を切るのにいったい何年かかるというのだ。日本語が「危機言語」であるかどうかは、この本がある程度まで解答している。

 「日本語は亡びるか」というテーマに興味のある人は、半分は読むに値するので、目を通したらいいとはいっておこう。


<初出情報>

■bk1書評「水村美苗の『日本語が亡びるとき』への違和感を表明した本としては賛成だが・・・」投稿掲載(2002年3月12日)
■amazon書評「水村美苗の『日本語が亡びるとき』への違和感を表明した本としては賛成だが・・・」投稿掲載(2002年3月12日)





<書評への付記>

 書評のなかでも触れた、『日本語に主語はいらない-百年の誤謬を正す-』(金谷武洋、講談社メチエ、2002)の書評を再録しておこう。


よくぞはっきりと言い切ってくれた、と著者には申し上げたい

サトケン
2002/01/14 23:57:00

 よくぞはっきりと言い切ってくれた、と著者には申し上げたい。そう、「日本語には主語などもともとない」のである。本書は日本語学者の三上章の「主語無用論」を継承・発展させたものである。

 明治以来、近代化=西洋化を国是とした日本は、日本語を劣等言語とみなしてこれを改造しようとした結果、言語構造のまったく異なる英語の文法でもって日本語を説明しようとして国語文法が作られた。その結果、日本語では「主語が省略されることが多い」などと説明され、英語と比べて日本語は非論理的だなどという自虐的な発言がまかりとおる事態となっているのである。
 そしてその弊害が、海外の日本語教育の現場で発生していると著者は訴えている。著者は言語学者だが単なる学者ではなく、カナダのそれも英仏二言語併用のケベック州で日本語教育の研究と実践に従事している「現場の人」である。その人が、現行の日本語文法(国語文法)では日本語をきちんと説明できない、あまっさえカナダ人の教え子たちに対して申し訳ない、とさえいわざるをえないのが現状なのだ。
 そういう人がタイトルとおりの主張をしているのだから説得力は強い。しかも本人は「不退転の覚悟」で望んでいると書き記している。日本語という人間関係重視が目的の言語でこういう内容の本を書くというのは実に難しいことなのだ。

 本書がとくに痛快なのは、エイゴ(=英語)セントリック(=英語中心主義、言語学者角田太作氏による表現)を徹底的に攻撃している点である。英語(というよりも米語)しか解さない日本の言語学者の多くが、チョムスキーの生成文法にしたがって日本語を分析しているさまを、著者は悪しき実例として滑稽さとともに描き出しているが、日本語を英語の文法で説明することなど土台ムリな話なのだ。

 本書は実に痛快な本だ。だがちょっと残念なのは、「母語」ではなく「母国語」と一貫して表記していること東アジアの言語として日本語と朝鮮語、中国語を並列的にならべていることである。日本語とまったく言語構造の違う中国語ではなく、むしろ朝鮮語、モンゴル語をあげてもらった方がよかったのではないかと思う。この点の説明が足りないので誤解が生じる恐れがある。

 本書には田中克彦の『国家語をこえて』が引用されているが、ぜひ『ことばと国家』『チョムスキー』などに展開されている視点も加えると、本書はさらに現状に対するラディカル(根源的な)批判となって、もっと面白い本になったものと思う。

 ぜひ著者自身による日本語文法書と教科書を、日本語と英語その他で作ってほしいものだ。


初出情報 ■bk1書評「よくぞはっきりと言い切ってくれた、と著者には申し上げたい」投稿掲載(2002年1月14日)



「危機言語」について

 「危機言語」(endangered language)とは、文字通り、話者(speaker)がいなくなることで消滅の危機にある言語である。Wikipedia の記述によれば(2010年3月14日)、以下のようにある。

Michael Kraussによれば、100万程度の話者を持つ言語は、今後100年程度は安定であるとされている。この基準によれば現存する言語のうち半数は22世紀の初めまで、つまり約100年以内に完全に話し手を失い、消滅すると予想される言語である。

 日本の人口は現在、約1億2千7百万人いるが、このうち広い意味で日本語を母語とする日本在住者が限りなく同数に違いであろうと推計して、上記の計算式をあてはめれば、日本語が亡びるのは127世紀後になる。つまり紀元148世紀ということになる。果たしてそれまでに地球は滅亡せず、日本人だけでなく人類も生き残ってるのかどうか?(笑)

 あれだけアメリカ文学を読み込んで、自らアメリカ人作家の日本語の新訳も多数出している、世界的大作家の村上春樹が、なぜ日本語で書き続けているのか。理由は簡単である。本人が日本語で書くのが一番ラクだからだろう。そして、いくらでも翻訳需要があって、翻訳者もそれぞれの言語に存在するから英語で書く必要などまったくない。
 逆に、古くはポーランド人のジョゼフ・コンラッドや、最近では日本人のカズオ・イシグロのように母語ではなく、英語で書いた英語作家も存在するが、かれらにとって、書き言葉としての英語は、もはや第二言語以上の存在になっており、母語で書くよりも、英語で書くほうがナチュラルなためである。
 一方、学術的著作はフランス語や英語で行いながら、文学作品は自らの母語であるルーマニア語でのみ(!)書いたミルチャ・エリアーデのような存在もいる。
 
 『日本語が亡びるとき』で危機感を表明した作家・水村美苗の場合は、12歳から家族に連れられてどっぷりそのなかに浸かっていた英語は、母語である日本語並みになっており、いわばバイリンガルといってよい存在となっている。
 それだけの英語力のある人間だからこそ、英語が自分の日本語を浸食していると痛切に感じるのだろう。そういった個人的な事情はわからなくはないが、圧倒的多数の日本人にとっては無縁の発想である。日本の場合、大学をでていても水村美苗氏ほど英語を使いこなせる人間はごく少数に過ぎない。
 以前このブログでも紹介した、スイスのフランス語作家アゴタ・クリストフも同じような意味で、母語であるハンガリー語が浸食されているという危機感を痛切に感じており、日常生活で使用し、作家としても使用しているフランス語を「敵語」と表現している。

 それになんといっても日本は島国である。大陸国の場合、大言語圏に隣接する小言語は、おうおうにして飲み込まれてしまうもので、私はかつてシベリア鉄道に乗って、北京からモスクワに向かった際、北京からウランウデまで同じコンパートメントで一緒になったブリヤート・モンゴル人母子のことを思い出す・・・
 旧ソ連に組み込まれていたバイカル湖周辺のモンゴル系のブリヤート人は、一説によれば日本人ともっとも遺伝子レベルで近いともいわれるくらいで、外見は日本人とまったく変わりないのだが、母と子の会話がすべてロシア語(!)であったのだ。モンゴル語ではなく、ロシア語。これが「危機言語」あるいは「消滅言語」の姿である。ブリヤート人でもロシア語を母語とする者は半数近くに達しているらしい。

 日本語の今後については、日本語は文部科学省が決めるものでもなければ、インテリ作家が決めるものでもない。圧倒的多数の一般使用者が日常生活をつうじて、無意識のうちにう作り上げていくものだ。
 日本語のボキャブラリーは英語に由来するものが今後も大幅に増えるだろうが、基本的な言語構造にはいささかの揺るぎも生じないだろう。これが金谷氏の議論を、極度に圧縮した私なりの結論だ。
 
 まあ、というわけで、水村美苗の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008)を読んだときに感じた、非常に強い違和感に、留保付きだが、正面から反論する言語学者がでてきたのは、よろこばしい次第である。
 ただし、長期にわたって事実上占領され傀儡(かいらい)国家となり、知識階層がほぼすべて抹殺されたという、内外モンゴルのような悲劇的状況が起これば、話はまたく別である。
 
 つまるところ、話者の人為的に抹殺差されるという事態が発生しない限り、日本語が亡びることはないのである。





<参考サイト>
 
危機言語小委員会


<ブログ内参考サイト>

コンラッド『闇の奥』(Heart of Darkness)より、「仕事」について・・・そして「地獄の黙示録」、旧「ベルギー領コンゴ」(ザイール)

ハンガリー難民であった、スイスのフランス語作家アゴタ・クリストフのこと
        
書評 『漢字が日本語をほろぼす』(田中克彦、角川SSC新書、2011)-異端の社会言語学者・田中克彦の「最初で最後の日本語論」
   
(2014年1月8日 画像など情報追加 内容については手は入れていない)


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