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2012年11月11日日曜日

書評 『秋より高き 晩年の秋山好古と周辺のひとびと』(片上雅仁、アトラス出版、2008)--「坂の上の雲」についての所感 (5)


陸軍騎兵隊生みの親である秋山好古(あきやま・よしふる)と、海軍参謀としてバルチック艦隊殲滅の作戦を立案した秋山真之(あきやま・さねゆき)の秋山兄弟。

この兄弟が日露戦争を勝利に導いたことは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の読者やそのドラマ化をみた人なら誰もが知っていることだろう。

熱心なファンのあいだでは、では秋山真之と秋山好古のどちらが好きかといった話題になることがある。

どうしても「天気晴朗なれど波高し」の名文句を残した天才参謀・秋山真之ファンが多くなるのは当然だが、わたしは『坂の上の雲』を読んで以来の秋山好古ファンなのである。

その理由は、人もうらやむ陸軍大将まで昇進しながら、退役後は郷里の松山に帰って中学校の校長を務めたという生き方にある。何物にも恬淡(てんたん)として執着せず、乞われたら天命をまっとうするという生き方人間の生き方としては、じつにすばらしい

これに賛成してくれる人もいなくはないことを知った。間違いなく秋山好古ファンは存在するのだ。

先日のことだが、2012年10月25日から11月3日まで、「西日本縦断ツアー」と銘打って、拙著 『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』(こう書房、2012)のプロモーションを兼ねて、鹿児島から京都まで高速バスをつかった長旅を行った。

その際、広島から瀬戸内海をフェリーで渡って松山に入ったのだが、まさにNHKドラマ『坂の上の雲』の世界そのままであった。海軍に入った主人公の一人・秋山真之が、休暇を利用して呉から船で松山に帰省するシーンがドラマには何度か登場する。

そして、城下町松山は秋山兄弟と正岡子規が少年時代を過ごした土地である。

(坂の上の雲ミュージアム)

松山での短い空き時間のあいだに「坂の上の雲ミュージアム」に立ち寄ってみたのは、当然といえば当然だろう。

ただ、ミュージアムは建築家・安藤忠雄によるコンクリート打ちっ放しというワンパターン建築で、内容展示にかんしても、やや物足りなさを感じさせられたのがちょっと残念ではあったが。

「坂の上の雲ミュージアム」から坂をすこしあがったところに、国重要文化財の萬翠荘(ばんすいそう)がある。

第15代松山藩主にあたる久松定謨(ひさまつ・さだこと)伯爵の別邸として建設された洋館である。その一階の売店で『秋より高き 晩年の秋山好古と周辺のひとびと』(片上雅仁、アトラス出版、2008)をみつけて即購入を決めた。地方出版は、なかなか入手しにくいことがあるからだ。

(萬翠荘 筆者撮影)

その久松定謨(ひさまつ・さだこと)伯爵とは、秋山好古が補導役としてフランス留学のお供をした松山藩の旧主君である。かれらはともにサンシール陸軍士官学校に学んでいる。初期の陸軍将校にはフランス派が多かったことはアタマのなかにいれておきたい。

この本は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にはくわしく描かれなかった「その後の秋山好古と松山」である。

司馬遼太郎は秋山好古の臨終シーンを書いていたが、本書はその前の北予中学校の校長として過ごした6年間こそ、秋山好古の本来の姿に近かったのかもしれないということがわかる好著であった。

学問好きで並の教養人以上の知識人であり、しかも軍務をつうじて海外経験も長い秋山好古は、やはり明治の軍人であったというべきだろう。比較文学者の島田謹二は弟の秋山真之とおなじく海軍の広瀬武夫をとりあげて評伝として描いたが、陸軍の秋山好古が取り上げられなかったのは残念なことだ。

薩長ではない佐幕の松山藩の下級武士の家に生まれて刻苦勉励の末、陸軍大将まで昇進した秋山好古であったが、高いポジションについたといっても、物静かで大声を出さず、誰とでもわけへだてなく接する、けっして上から目線になることのない人であった。

その秘密が、若い時に読んだ福澤諭吉の『学問ノススメ』であったことを知ったのは、本書を読んだ最大の収穫であったといっていい。経済にも明るく、合理主義を貫いた思考方法は、福澤諭吉の影響であたようだ。

明治維新の敗者である会津藩出身の陸軍大将・柴五郎とともに、記憶に刻み込んでおくべき明治の清廉潔白な国際人としての陸軍軍人であった秋山好古。陸軍大将になるのは人生の目標ではなく、結果としてそうなったに過ぎないのである。

軍人本来の合理主義に貫かれた柔軟な思考と国際的視野。これが郷里の松山の教育者として乞われた理由であったようだ。秋山好古は、本質的に生涯をつうじて教育者だったのであろう。




目 次

1. 校長就任
2. 北予中学校の揺籃とパリの縁
3. 無休主義
4. 温厚と平等
5. 人間的吸引力
6. 校長の責任
7. 生徒は兵隊ではない
8. 松山高校の紛争を調停
9. 運動競技は各国民の品位を代表する
10. 温泉、ヘボ碁、都々逸
11. 天皇の見方
12. 経世の道
13. 自治と科学的精神
14. 関東大震災、朝鮮、中国
15. 自分の劣勢を認める勇気
16. 私学的自由の尊重
17. 若き日に「必ずしも艶聞なきにあらず」
18. 同志たち (1) 加藤恒忠
19. 同志たち (2) 新田長次郎
20. 同志たち (3) 白川義則
21. 舞台まわしは井上要
22. 校長はすでに老いて
23. 自己教育
24. 銅像は見ている
あとがき
秋山好古略年譜
参考文献

著者プロフィール

片上雅仁(かたかみ・まさひと)

昭和30年(1955年)、愛媛県松山市生まれ。一橋大学経済学部卒業。朝日新聞愛媛版短歌投稿欄選者。愛媛県県立高校地理歴史・公民科教諭。平成18年度まで、好古が校長を務めた北予中学校の後身である松山北高等学校に勤務したことから、朝日新聞愛媛版に「晩年の秋山好古」を連載し、好評を博した。 


<関連サイト>


坂の上の雲ミュージアム(愛媛県松山市)

萬翠荘(ばんすいそう)(愛媛県松山市)


<ブログ内関連記事>

瀬戸内海を広島から松山までフェリーで渡り、高速バスで瀬戸大橋を渡って岡山へ(2012年10月30日~31日)-物理的な距離感と心理的な距離感に違いについて


陸軍と騎兵

陸上自衛隊「習志野駐屯地夏祭り」2009に足を運んでみた

「下野牧」の跡をたずねて(東葉健康ウォーク)に参加-習志野大地はかつて野馬の放牧地であった ・・日本騎兵隊の父・秋山好古は陸軍騎兵第一旅団長として、日露戦争開戦前は習志野にいた


フランス派の陸軍将校

『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)は「敗者」の側からの血涙の記録-この本を読まずして明治維新を語るなかれ!
・・砲兵科出身の柴五郎は、おなじく砲兵のドレフュスとは同時代人


明治時代と「坂の上の雲」関連

NHK連続ドラマ「坂の上の雲」・・・坂を上った先にあったのは「下り坂」だったんじゃないのかね?

秋山好古と真之の秋山兄弟と広瀬武夫-「坂の上の雲」についての所感 (2)

高橋是清の盟友となったユダヤ系米国人の投資銀行家ジェイコブ・シフはなぜ日露戦争で日本を助けたのか?-「坂の上の雲」についての所感 (3) 

「石光真清の手記 四部作」 こそ日本人が読むべき必読書だ-「坂の上の雲」についての所感 (4)

『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書、1971)は「敗者」の側からの血涙の記録-この本を読まずして明治維新を語るなかれ!

(2014年6月7日、2015年2月28日 情報追加)


 
 (2020年12月18日発売の拙著です)


(2020年5月28日発売の拙著です)


 
(2019年4月27日発売の拙著です)



(2017年5月18日発売の拙著です)


   
(2012年7月3日発売の拙著です)

 





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