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2014年8月23日土曜日

「シャーリプトラよ!」という呼びかけ-『般若心経』(Heart Sutra)は英語で読むと新鮮だ


いわゆる「写経」を体験された方も少なくないとおもいます。写経では、一般的に『般若心経』を漢字で一言一句そのまま写すことが求められます。

わたしも成田山での断食参籠修行中に一度だけ試みたことがありますが、あまりにも字が下手くそなのに嫌気がさして、それ以来まったく試みておりません。字が下手なだけでなく、根本的に精神がこもってないのかもしれませんが・・・。

『般若心経』は、大乗仏教の「空の思想」、智慧の最高境地である「般若」について説いた教典として、古くから日本人に親しまれてきました。漢字だとたった257文字に集約されているので、「写経」の材料としては最適ということなのでしょう。(注:262文字とするケースもある)。

わたしが『般若心経』にはじめて接したのは大学時代のことです。『般若心経』がすばらしいということを何度も耳にしてましたが、それまでまったくお経の内容も知らなかったのです。浄土系の家に生まれたわたしにとっては、まったく縁のない存在だったわけです。

大学時代に何度も読んだのが、『般若心経講義』(高神覚昇、角川文庫、1952 初版1947年)です。もともと戦前にラヂオ放送された講義録ですので、読みやすく、面白くてためになる本です。わたしはこれ一冊あればほかにはいらないとさえ思います。

高神師は、真言宗の学僧で、「唯仏史観」を説いておられます。「唯物史観」のもじりですが、こういう点は時代を感じさせるモノがありますね。「経営の神様」と言われていた松下幸之助は、このラヂオ放送をリアルタイムで聴いていて、みずからの経営哲学の基礎を作り上げたといわれています。

そういう経緯もあって、真言宗や禅宗では『般若心経』が重視されてきたことを知りました。そう考えると、「南無阿弥陀仏」の浄土系宗派が、大乗仏教としてはいかに異色の存在であるか、つくづく思うわけです。浄土系は、はたして仏教なのか? 阿弥陀教とでもいうべきではないか、と。

『般若心経』は、日本ではもっぱら三蔵法師玄奘(さんぞうほうし・げんしょう)による漢訳が用いられてきました。しかし、お経というと漢字で書かれていて、耳で聞いてもまったくわからないというのが、いつわらざる感想ではないでしょうか。いや、わからないからこそ、ありがたいのだ、と(笑)
    
もちろん『般若心経』の末尾の「羯諦羯諦・・(ガテー、ガテー・・)」はマントラ(=呪句)ですから、漢訳でも、文字に写しただけで意味は訳されていません。しかしそれ以外の箇所は、読んで考え抜けば、おぼろげながらでも意味をとることはできるわけです。


『般若心経』は英語で読むといい

日本人は「仏教イコール漢字」、という固定観念というか、思い込みがあるようですが、英語で仏教やっても、おかしくもなんともありません。じっさいにアメリカ人のブディスト(=仏教徒、直訳すればブッダ主義者!)、英語で書かれたお経(スートラ)を読むわけですし、フランス人ならフランス語で「お経」を読むわけです。日本人のキリスト教徒が日本語訳聖書を読むのと同じですね。

そもそも、大乗仏教の経典は古代インドのサンスクリット語(=梵語)で書かれているわけですし、初期仏教や上座部の教典はおなじく古代インドのパーリ語で書かれているわけですから、お経は最初から漢字で書かれていたわけではない(!)のです。「お経=漢字」という思い込みは、「仏教=漢字」と同様、捨て去ったほうがいい

ほんとのことをいうと、「仏教」という漢字語じたい、問題が多すぎるのです。仏教はドグマを強要する宗教ではなく、覚者(=悟った人)であるブッダが考えに考えた末に到達した教え(Teaching of Buddha)のことなのです。仏教のカバー範囲があまりにも広すぎるので、とんちんかんな問答になってしまうことが多々あります。

仏教は、すくなくとも初期仏教の段階においては、宗教というよりも、世の中の現象をどう見るかについての考え方というか、哲学といったほうが近い。ある意味では、近代科学の現時点の到達点よりも、はるかに先をいっているわけです。だから、理工系の人間は「初期仏教」に引き寄せられやすいわけですね。

だからこそ、『般若心経』を英語で読むというのは、アメリカ人や英語人なら当然のことなわけです。

日本でも明治時代以降はサンスクリット語の原文で仏教を研究する地盤が整ったので、現在では三蔵法師玄奘による漢訳もさることながら、原文からの現代日本語訳でも読めるようになっています。


『英文般若心経』は『ハート・スートラ』(Heart Sutra)

『般若心経』の正式名称は、『般若波羅蜜多心経』、サンスクリット語で『プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ』(Prajñā-pāramitā-hṛdaya)となります。

「般若」とは、原語 prajnã(プラジュニャー) の俗語形(pannã:パンニャ)の音をそのまま漢字に写したもので、人間が真実の生命に目覚めたときにあらわれる根源的な叡智のこと。

「波羅蜜多」(はらみった)というのは、「パーラミター」の音を写したもの。悟りの世界である「彼岸」(・・これも本来の仏教要語としての意味)に至るプロセスことです。6つのプロセスがあるので六波羅蜜といいます。奈良の六波羅蜜寺の六波羅蜜ですね。

「フリダヤ」とは心臓の意味。したがって、「心経」とは「心臓-教」であり、もっとも肝心な、教えの「心髄」があるという意味になります。だから、『英文般若心経』が、『ハート・スートラ』(Heart Sutra)となるわけです。

(世界最古のサンスクリット語写本は法隆寺にある wikipediaより)


「スートラ」というのはお経のことです。「スートラ」といえば、『カーマ・スートラ』という性愛の教典がありますが、これは仏教ではなく、5世紀のヒンドゥーの思想家ヴァーツヤーナによるものです。

では、『英文般若心経』をさっそく読んでみましょう。「ホームページ」(・・なつかしい響きだ!)が話題になり始めた頃の2000年に、わたしが自分の「ホームページ」のコンテンツとして掲載したものをここに再録することにします。

日本語訳、英訳、漢訳とならべて掲載してあります。

三蔵法師玄奘による漢訳と、サンスクリット原文からの現代日本語訳については、『般若心経・金剛般若経』(中村元・紀野一義訳注、岩波文庫、1960年)および『バウッダ(佛教)』(中村元・三枝充悳、小学館、1987年)を使用させていただきました。

英文については、アメリカの禅寺のサイトから引いてきたのですが、もともとの出典がどこにあるのか不明になってしまいました。ネットで検索すると、禅仏教ではいまでもこの英訳が使用されているので、とくに問題はないと思います。


(全知者である覚った人に礼したてまつる)

Avalokiteshvara Bodhisattva, when practicing deeply the prajna paramita, perceived that all five skandhas in their own being are empty, and was saved from all suffering.

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄

求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があることを見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。



"O Shariputra, form does not differ from emptiness, emptiness does not differ from form; that which is form is emptiness, that which is emptiness form. The same is true of feelings, perceptions, formations, consciousness.

舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是

シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得る)のである。実体がないといっても、それは物質を離れていない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。


O Shariputra, all dharmas are marked with emptiness: they do not appear nor disappear, are not tainted nor pure, do not increase nor decrease.

舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減

シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。


Therefore in emptiness, no form, no feelings, no perceptions, no formations, no consciousness; no eyes, no ears, no nose, no tongue, no body, no mind, no color, no realm of eyes, until no realm of mind-consciousness; no ignorance, and also no extinction of it, until no old-age and death, and also no extinction of it; no suffering, no origination, no stopping, no path, no cognition, also no attainment. 

是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無限界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得

それゆえにシャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼(げん)の領域から、意識の領域にいたるまでことごとくないのである。(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなかうなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いも死もなくなることはないということにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得ることもない。


With nothing to attain, a Bodhisattva depends on prajna paramita and the mind is no hindrance. Without any hindrance, no fears exist. Far apart from every perverted view one dwells in nirvana. In the three worlds all Buddhas depend on prajna paramita and attain unsurpassed complete perfect enlightenment.

以無所得故菩提薩依般若波羅蜜多故心無礙無礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提

それゆえに、得るということがないから、諸々の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っていけるのである。過去・現在・未来の三世にいます目覚めたひとびとは、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目覚めを覚り得られた。


Therefore, know the prajna paramita is the great transcendent mantra, is the great bright mantra, is the utmost mantra, is the supreme mantra, which is able to relieve all suffering and is true not false. 

故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚

それゆえに、人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。


So, proclaim the prajna paramita mantra, proclaim the mantra that says,

故説般若波羅蜜多呪即説呪曰呪即説呪曰

その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。



Gate, gate, paragate, parasamgate! Bodhi! Svaha!"

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

ガテー ガテー パーラガーテー パーラサンガテー 
ボーディ スヴァーハー (意訳: 往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ)


さて、いかがでしょうか? 漢訳と現代日本語訳は違う印象があるのは当然でしょう。ですが、現代日本語訳と英訳はかなり似てますよね。

翻訳者によってサンスクリット原文のテキストや解釈が一致しないので、完全に一致してませんが、意味の理解は漢訳よりも容易でしょう。

もちろん一度読んだくらいでは、まったく真意はつかめません。たとえ翻訳だとはいえ、使用されている個々の概念が難しいので、読んですぐに理解できるはずがありません。

『般若心経』については、すでに紹介した以外にも、日本語だけでも数え切れないほど多数の翻訳と注釈があります。

もっとも新しいものには、理工系出身の仏教学者・佐々木閑氏によるものがあります。『般若心経-「見えない力」を味方にする-(NHK「100分de名著」ブックス)』(佐々木閑、NHK出版、2014)は、NHK・ETV で放送された「100分de名著」という番組のテキストをもとにしたものです。2014年9月に再放送されます。


「おお、シャーリプトラ」(O Shariputra)

漢訳と現代日本語、英訳との違いは、なんといっても、「舎利子」(しゃりし)が「シャーリプトラよ!」という呼びかけに替わっていることでしょう。

シャーリプトラよ! という呼びかけです。どうですか? なんか、違いを感じませんか?

「舎利子」という漢字語は、仏舎利(ぶっしゃり)を連想するのであまり好きじゃありません。舎利とはお骨のことです。よく炊けたうまいコメの飯のことを俗に銀シャリといいますが、これは米粒のような舎利からの連想です。

シャーリプトラという呼びかけだとわかると、これはお経というよりも、哲学詩のような印象を受けませんか? お釈迦様がシャーリプトラに説き聞かせているのです。

といっても、もちろん初期仏教のブッダその人の教えそのものではありません。『般若心経』は、あくまでも、初期仏教以降の、いわゆる「小乗仏教」を否定した「大乗仏教」の立場からつくらてたものです。この点は押さえておかなくてはなりません。

では、シャーリプトラとは誰なのでしょうか。シャーリプトラは、智慧第一と称される仏弟子の一人です。シャーリプトラ(Śāriputra)は大乗仏教の経典に使用されているサンスクリット語、上座仏教で使用されているパーリ語ではサーリプッタ(Sāriputta)となります。上座部では阿羅漢(あらかん)として智慧第一としてきわめて重要な存在です。

(シャーリプトラ 19世紀ビルマの木彫り wiipediaより)


『般若心経』というお経は、そんな智慧第一のシャーリプトラに、釈迦が「真理」を説いて聞かせるという形をとっているわけです。ある意味、「大乗仏教」の「小乗仏教」への優位を主張している教典と捉えることも可能です。

だから、上座仏教の立場にあるスマナサーラ長老などは、『般若心経は間違い?』(宝島SUGOI文庫、2009)という本で、『般若心経』批判を行っています。あわせて読んでおくといいでしょう。

『般若心経』の読み方はさておき、仏教から漢字をはずして、最初から英語でやってみたらずいぶん違う光景が見えてくるでしょう。たとえば、ダライラマ法王が英語でする法話は、日本のお坊さんの話とは受ける印象がだいぶ違いますよね。


『般若心経』の最後を締めくくる「ガテー ガテー・・・」はマントラ(=呪句)です。『般若心経の新世界-インド仏教実践論の基調-』(宮坂宥洪、人文書院、1994)は、般若心経をマントラ(=真言)として捉えています。さきに紹介した 『般若心経講義』(高神覚昇、角川文庫、1952)と同じく、真言宗の立場から書かれたものです。

このマントラこそが、本来の「お経」なのです。だから漢訳でも音をそのまま漢字に転写しただけで、この漢字には意味はありません。英訳でもそのままですね。いかなる言語による翻訳においても、サンスクリットの原文そのままで朗誦されてきたのです。まさに「お経」たるゆえんです。

正直いって、『般若心経』に限らず、お経の漢字は難しすぎます。これが現代人を仏教から遠ざけている大きな理由の一つだと思います。

そもそも「仏教」というコトバでいったいなにを指しているのか、人によってまちまちなので、コミュニケーション不全状態となっているのが現状でありますが・・・。

だからこそ、固定観念をいったんは捨てて、英語でブディズム(Buddhism)に取り組んでみるのもいいのではないかと思うのです。


「般若」とは「無分別智」

「般若」とは、原語 prajnã(プラジュニャー) の俗語形(pannã:パンニャ)の音をそのまま漢字に写したもので、人間が真実の生命に目覚めたときにあらわれる根源的な叡智のことです。

「波羅蜜多」(はらみった)というのは、「パーラミター」の音を写したもの。悟りの世界である「彼岸」(・・これも本来の仏教要語としての意味)に至るプロセスことです。

6つのプロセスがあるので六波羅蜜といいます。奈良の六波羅蜜寺の六波羅蜜ですね。布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の6つです。

一般的に、日本語で「知」・「知識」・「知性」といえば、判断能力としての「分別知」(vijnãna:ヴィジュニャーナ)のことをさしています。いわゆる「分析的知性」のことです。しかし、それをいくら磨いても、秀才以上の存在にはなり得ません

「般若」とは「無分別智」のことです。「無分別」と書いて「むふんべつ」と読みます。もともとは仏教要語です。世の中では、「分別」(ぶんべつ)のある人がよいとされていますが、仏教では「無分別」のほうがよい、とされているのです。「自他未分離」、すなわち自分と他者が一体になる境地のことをさしています。

分別知だけでは、ほんとうに深い、根源的なものを知ることはできないのです。研究開発や製品開発においても、画期的なブレークスルーは、分別知をいくら磨いても実現することはありません考えに考えたすえ、突然やってくるのが「直観」です。その直観は「無分別智」である「般若」のなせるわざなのです。

クォンタム・リープ(Quantum Leap)という表現がアメリカではよく使わています。日本語でいえば、量子力学的飛躍となります。「分別知」だけでは、大きな飛躍は可能となりません。「分別知」という分析的知性を前提とするビジネスの世界においても、つねに「無分別智」について意識することが大事なのです。

西欧人自身がそれに気がついているからこそ、意識レベルの高い人であればあるほど、量子力学や仏教について考えたり、思索を深めたりしているわけです。「分別知」の限界を感じているからなのです。

経営学修士号(=MBA)は「分別知」の最たるものですが、わたしの母校のレンセラー工科大学で受講した「戦略実行」(Strategy Implementation)の授業の最後で、実業界出身の教授が、哲学書の『禅とオートバイ修理技術』(Zen and the Art of Motorcycle Maintenance)を読めと示唆されたことが、強く印象に残ってます。1992年のことです。

なぜアップル創業者のスティーブ・ジョブズは禅仏教に傾倒していたのか。そのヒントが、禅仏教でも経典として使用されている『般若心経』(Heart Sutra)にあるといっていいでしょう。ムダなものをそぎ落としてシンプルにするという発想を禅仏教から得たのは確かですが、それ以上の学びがあったのではないかと、わたしは思います。

『般若心経』は、ぜひ英語で読んでみることをおすすめします。





PS この記事は、文中にも記したように、2000年にわたしが「ホームページ」のコンテンツとして作成した 英文般若心経(Heart Sutra) を大幅に加筆修正のうえ、再編集した「改訂版」です。 (2014年8月23日 記す)


<関連サイト>

The Heart Sutra and Key Concepts of Buddhism
・・ Zen for Beginners の項目。原文の英訳とその解説(英文) ブログ記事で使用した訳文とはやや異同がある

高神覚昇 般若心経講義 (青空文庫)
・・著作権が切れているのでネットで読める。まずは語り口をこれで確認するといいだろう

Tricycle: The Buddhist Review 
・・アメリカでもっとも有名な仏教雑誌のサイト『トライシクル(三輪車)』。Facebookページもある。禅仏教とチベット仏教関連が中心だが、上座仏教その他アジア系仏教もカバーしている。ちょうどわたしが滞米中の1991年に創刊、滞米中に購読していた。紙媒体のバックナンバーは、いまでも所有している。すでに1991年頃には、政府高官にもチベット仏教信者がいたことがインタビュー記事からわかる。


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